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子どもを理解するとは何か──情報の時代に失われる“見抜く力”


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 最後にこのブログを更新してから、気がつけば二年以上が経っていました。日々の仕事に追われていたというのが正直なところですが、その間にも教育を取り巻く環境は大きく変わり続けていました。特にAIの発達は目覚ましく、学校や支援の現場でも「データをもとにした指導」や「分析」に注目が集まっています。 こうした状況の中で、改めて「子どもを理解するとはどういうことだろうか」という原点に立ち返りたくなり、久しぶりに文章を書くことにいたしました。



■ 情報が増えるほど“見えにくくなる”危険


 私たちは今、子どもに関するたくさんの情報に囲まれています。行動記録、テストの結果、家庭環境のデータ、発達の知識、SNSから聞こえてくる断片的な話――こうした情報は年々増えています。しかし、情報が多ければ多いほど、かえって子どもが見えにくくなることがあります。


 本来、子どもは単純ではありません。いろいろな事情や気持ちが重なり合い、ときには矛盾した姿を見せることもあります。ところが、情報が提示されると、私たちはつい先入観をもってしまいがちです。


 たとえば――

  • 成績がよくない   → 「もともと能力が低いのだろう」

  • 兄も落ち着きがない → 「きっと遺伝だろう」

  • 両親が離婚している → 「家庭に余裕がないのかもしれない」


 こうした“もっともらしい推測”を、教師が無意識に抱いてしまうことがあります。しかし、これらはあくまで一部の情報であって、子どもの姿を正確に示すものではありません。 むしろ、思い込みを強めてしまう危険さえあるのです。


■ “見抜く力”とは、行動の奥にある気持ちを探ろうとする姿勢


 私は教育の現場で、子どもの行動の「奥にある気持ち」を見ようとする力がとても大切だと感じています。 たとえば、反抗的な態度は「嫌だ」という意思ではなく、「本当は困っている」というサインかもしれません。無言で固まっている姿は「考えていない」のではなく、「考えはあるけれど言葉(日本語)にならない」のかもしれません。


 このように、目に見える行動だけで判断しない姿勢が「見抜く力(洞察力)」です。 そして、それはデータを読み解く作業よりも、日々の小さな変化を丁寧に感じ取ることから生まれます。


 ・表情のわずかな変化 ・声のトーン ・いつもと違う発言や行動


 こうした“小さなサイン”を見逃さないことが大切です。

 見抜く力とは難しい技術ではなく、子どもに向き合う態度そのものだと言えるかもしれません。


■ 教育とは「子どもの未来を見ること」でもある


 教師や支援者が向き合っているのは、子どもの今の姿だけではありません。まだ言葉になっていない力、まだ形になっていない可能性、これから育っていく未来――そうした「なりうる姿」を見つめることが教育には含まれています。


 見える行動だけを急いで判断してしまうと、子どもの未来につながる芽を摘んでしまうかもしれません。逆に、見抜く力を持っていると、「怒りの中に含まれる寂しさ」「笑顔の裏にある不安」「ふてくされた態度の奥にある承認欲求」 などに気づくことができます。


こうした小さな気づきが、子どもに寄り添うことにつながっていくのです。


■ AIの時代にこそ、“人と人との時間”が必要になる


 AIは学習の記録を分析したり、情報から傾向を予測したりすることが得意です。しかし、その子がどんな気持ちでその行動を選んだのか沈黙の裏に何があるのか。

――そうした「心の温度」を読み取ることは、AIには難しいでしょう。


 子どもへの理解は、データではなく、関係を育む中で深まっていくものだからです。


 子どもが心を開くスピードは人それぞれです。 ある子には “長めの時間”が必要なときがあります。AIの発達に伴い、スピードが重視される今だからこそ、この「人と人との時間」を大切にしたいと思います。


 どれほど技術が進んでも、目の前の子どもに丁寧に向き合う姿勢だけは、AIには決して代わることができないと信じているから。


 
 
 

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