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プラス・エデュケートを始めた理由 part1




 こんにちは、初めまして。

NPO法人プラス・エデュケート 理事長の森 顕子と申します。これからブログを始めることにしました。ぜひ今後を楽しみにしていただければ幸いです。

 

 さて、私は理事長であるため、様々な方に「プラス・エデュケートとはどんな団体なのか」「何を理想として、どのような活動をしているのか」「今後どのようにしていきたいのか」などを説明するよう求められます。うまくお伝えできているのか、不安に思いながらも、外国にルーツをもつ子どもたちの現状、そして未来の姿について誠実にお話することを心掛けています。その流れの中で「ところで、森さんはどうしてこの事業に興味をもち、この事業をはじめたのですか。」と聞かれることがあります。

そこでブログの第1回は、この答えからお話してみようと思います。


 新しい元号が「令和」と決まり、もうすぐ「平成」が終わりますね。私は「昭和」生まれで、母親は団塊世代といえば、おのずと年齢が推測できることでしょう。若かりし頃の私は、1986年に男女雇用機会均等法が施行され、性別に関係なく働けることに、夢と希望をもったものです。その頃に漠然として抱いていた夢は二つで、一つは、いわゆる大企業で総合職として働くこと、もう一つは、海外に出て働くことでした。そして、合格した大学が「日本語教師」になるために学べる日本語教育コースがあるところだったので、そのまま進学しました。

 私が入学した当時はまだ歴史が浅く、まだ卒業生がいない新しい学部でした。日本語のネイティブスピーカーである自分が、あらためて「日本語」を他言語と比較しつつ、学ぶことは非常に興味深かったです。が、大学卒業前にバブル崩壊を迎え、氷河期といわれた就職難の時代を迎えることになりました。ただでさえ就職が難しい時代に、実務経験のない人間が日本語教師だけで生計をたてることは困難でした。海外に行くにしても渡航費と当面の生活費がないという理由もあり、塾業界へ就職しました。日本語教育とは直接関係はありませんでしたが、非常に貴重な経験ができました。おかげさまで、教師として生徒や保護者の皆様から高く評価していただけるようになり、同時に管理者そして経営者としての基礎を学ばせていただきました。今の私の社会人としての基礎を作っていただいたといえると思います。

 必死に与えられた仕事をこなしていたら、気がつくと入社してから約10年の月日がたっていました。その間に結婚をし、「普通の家庭」に憧れをもつようになった頃、体の不調もあって退職しました。その後、高校の非常勤講師となり、少し自分の時間が持てるようになって、ようやく子どもを持ちたいと強く願うようになりました。


つづきは第2回で・・・・・・


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